笛木家ヒストリーからみる川島町
私の「笛木」という苗字は、川島町内では有名です。
ここ川島町には、寛政元年創業、230年以上続く醤油蔵元「笛木醤油」があるからです。
そしてよく「笛木醤油の娘さん?親戚?」と聞かれますが、残念ながら直接の親戚づきあいはありません。辿っていくと遠い親戚なのかも知れません。
町外の方からも、笛木醤油を知っている方は「もしかして…」という話になりますが、私は笛木醤油のファンなので、親戚です!と堂々と言えない悔しさがあります。
我が家は笛木醤油さんのように、食文化を継承している立派さはないですが、今回は、醤油屋ではない笛木家も知ってもらおうと(笑)、我が家にスポットをあて、当マガジンの主旨である「今日も誰かが町で何かを頑張っている」を「あの日、誰かが町で何かを頑張っていた」版でご紹介したいと思います!
笛木家ヒストリーを通して、先人達が築いてきた川島町を、また、当時の暮らしの背景を知ってもらえたら、先祖達も喜びます。
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笛木家の歴史を紐解く上で、残念ながら我が家に家系図といったものは無く、菩提寺も二度の火事にあい、記録がありません。
それでも先祖は、私に歴史を残してくれました。
我が家にある繰り出し位牌(戒名が書かれた板が複数枚入っており、位牌を一つにまとめたもの)に記された一番古い年号は、明和16年(1700年後半、江戸中期)です。その昔、数世帯の笛木家が、群馬県から移住してきたと推測されています。
移住してきた先祖が何をやっていたのかは不明ですが、明確なのは、私から5代前の笛木富重朗から。
江戸時代:
先程の繰り出し位牌に刻まれた、「施主 松平大和守領分 武州比企郡川嶋之内上井草 富重朗利継」。
ここから、富重朗が川越藩主であった松平大和守に仕えていた武士であったことが分かります。現在の住所表記は「埼玉県比企郡川島町上伊草」ですので、地名が変化してきたことも。
この時代は、本名「富重朗」に武士名「利継」が付いていました。
比企郡は江戸時代から現在令和まで変わらずで、今期大河ドラマにも登場した比企一族の存在感が刻まれているように思います。
明治に入ると、富重朗は戸長を任されていました。
現在でいう役場のような行政事務の責任者です。その習わしで、我が家は古い親戚から「こちょうさん家」と呼ばれています。
明治時代:
富重朗の長男が豊吉ですが、何をしていたのかは不明。
弟は、僧侶となり修行を積み、阿闍梨(修行が一定の階梯に達した人の僧位)として活躍していたそうです。その功績を称えて墓地に墓石があります。
大正時代:
豊吉の長男、丑太郎(私の高祖父)。
遺影が残っていますが、輪郭や目や耳など、どことなく私に似ています(笑)。
丑太郎は土建業をしており、それまで渡し船で行き来していた、現在の川島町と川越市をつなぐ橋の建設に関わりました。
昭和時代:
丑太郎の長男、亥吉(曾祖父)。
農業を営んでいましたが、この時代は、トラクターもないので、農耕として牛や馬を飼っていました。父が幼い頃はまだ馬がいたそうです。
「牛は休まないけれど、馬は短期集中型。まるでうさぎと亀のようだ」と父が話していました。近所で馬同士を競わせていたこともあったのだとか。
亥吉の長男、辰夫(祖父)。
兵隊を経て農業をやっていました。町の議員も務め、「たっちゃん」の愛称で顔が広かったようです。
地域の人に桜を楽しんでもらおうと、桜並木を仲間と植木。
孫からみた辰夫は、お茶面な一面もありつつ、いわゆるカミナリじじいでしたが(笑)いつも友人の来訪が耐えず慕われていました。
辰夫の長男、満(父)。
江戸時代に建てられた家に住み、囲炉裏や井戸もありました。
また、満が物心つく頃までは、貧しくて学校に通えない女の子が手伝いをしつつ寝泊まりして、学校に通っていたそうです。他にも、働き手として住んでいた男性もいたのだとか。
満は、サラリーマンをしながら、地域の行事(お囃子、伊草地区盆踊り大会等)に参加し、仲間と率先して地域を盛り上げてきたように見受けます。
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以上、笛木家ヒストリー、いかがでしたでしょうか?
家族の歴史を知ることで、町の歴史・日本の歴史と繋がりが広がっていき面白い発見ができました。
我が家のヒストリーは一つの事例で、川島町をここまで築いて下さったヒストリーが町内のあちこちにあると思うと、探究心に火が付きそうです!
新しく町外から移住した方や町内で仕事など活動されている方も含め、「今日も誰かが町で何かを頑張っている」の積み重ねにより、川島町がどのように発展していくか楽しみです。
川島町地域ライター 笛木 由美